Electron-Ion Collider でのePIC実験
始めに
「物質の構成要素は何だろう?」という素朴な疑問を元に、素粒子物理学は発展してきました。物質は異なる元素からなり、その元素(原子)は電子と原子核からなり、原子核は陽子と中性子から、そして陽子や中性子はクォークとグルーオンからできている、というのが現在我々の得ている知識です。物質を構成する最も基本的な要素を素粒子と呼んでおり、クォーク、電子が我々の物質世界を構成している素粒子です。素粒子の種類や性質が分かったら、この世界の全てが説明できるのでしょうか? その答えは「No!」です。
この世界は階層構造で出来ており、複数の粒子が集まると異なった振る舞いが見えてきます。例えば、クォークから出来ている陽子や中性子(まとめて核子と呼びます)、これらの中でクォーク、そしてそれらを結びつけているグルーオンがどのように配置されているかについてはほとんど分かっていません。クォークなど素粒子に質量を与えるメカニズムはヒッグス機構と呼ばれていますが、陽子や中性子の中でクォークの質量はほんの一部に過ぎません。クォークを結びつけている「強い相互作用」は質量のないグルーオンの振る舞いがそれらの質量を生み出すと考えられています。
また、陽子は「スピン」という量子数を持ち、クォークもスピンを持っています。しかし、クォークのスピンだけでは陽子のスピンを生成出来ないことが実験から判明しています。
原子核物理学における実験研究の成果の1つに、高エネルギーに加速した原子核同士を衝突され宇宙初期に存在したクォーク・グルーオン・プラズマ(QGP)の発見があります。QGPの探索が始まった当初、それはクォークとグルーオンが自由に飛び回る気体の状態であると予想されていました。しかし、様々な実験結果から「完全な流体」であることがわかりました。そして衝突のかなり早い時期に熱平衡に達していると考えられていますが、何故そうなっているかはまだ完全には理解されていません。
これらの現象を理解するためには、核子の内でクォークやグルーオンがどのような振る舞いをしているかを調べる必要があります。核子がさらに別の素粒子から構成されていることを実験的に証明したのは、高エネルギーの電子を核子に衝突させ、出てくる粒子の生成断面積(どのような運動量を持った粒子どれくらいできるかの確率)を精密に測定したことによります。核子の内部構造、核子の中でクォークやグルーオンがどのようなエネルギー分布を持っているか、あるいは原子核の中でグルーオンがどのような振る舞いをしているか、それを探索するために新しく建設される加速器、それが、Electron-Ion Collider(電子-イオン衝突型加速器: EIC)です。
EICは2032年の実験開始を目指して計画が進んでいます。建設場所は、米国のブルックヘブン国立研究所。現在、高エネルギー重イオン衝突型加速器(Relativistic Heavy-Ion Collider: RHIC)がある場所に作られます。
我々のグループでは、EICで最初の検出器として建設が認められた国際共同実験グループ ePIC (2022年7月に開始)に参加しています。そして、広島大学先進理工系科学研究科、信州大学理学部、奈良女子大学理学部、東京大学クォーク・核物理研究機構、理化学研究所の研究者と共に、AC-LGADという半導体検出器を用いた飛行時間検出器の開発を行っています。ePIC実験は25以上の国と地域から180近くの大学・研究所が参加しており、東北大学グループは、2024年にePIC実験への参加が承認されました。
学部生の皆さん、そして大学院進学を目指している皆さん。物質をクォークやグルーオンの多体系としてみる新しい物理に、我々と一緒に挑戦しましょう。
電子と原子核内のクォーク・グルーオンとの反応のイメージ
(オリジナルは、https://www.bnl.gov/eic/images/electron-ion-collision.png)
EICでの物理
陽子と原子核の精密3Dイメージング

高エネルギーの電子が、核子を貫通する際、その内部のミクロ構造と相互作用し、従来の「3個の値クォークが未知の力によって束縛されている」という単純な描像を超える、これまでにない詳細な情報を明らかにします。
最近の実験結果は、強い力(強い相互作用)を担うグルーオンが、光速近くまで加速された粒子内部で多数生成され、長時間にわたって滞留することを示唆しています。これらのグルーオンは、陽子および核物質の基本的な物理的性質を形成する上で、極めて重要な役割を果たしています。
EICでは、多様なエネルギー領域における衝突事象を測定することで、グルーオンの“海”および、それらの相互作用によって生成されるクォーク・反クォーク対の“海”の特徴を解明することが可能となります。これにより、陽子および原子核内部における粒子の空間分布や動的挙動を詳細にマッピングすることができます。これは、医用画像技術が脳の三次元動態画像を構築するのに類似しています。
これらの研究は、質量を持たないグルーオンのエネルギーが、アインシュタインの方程式 E = mc2 に基づいて、いかにして可視宇宙の大部分の質量へと変換されるかを明らかにするのに役立つ可能性があります。
グルーオン飽和(カラー・グラス凝縮)の探索
陽子および原子核内部におけるグルーオンの動的挙動を捉えることで、これら粒子の一時的かつ特異な性質に対する理論的理解を検証する方法を得ることができます。
グルーオンは真空中から出現しては消滅し、自己増殖・再結合を繰り返す性質を持ちますが、研究者たちはそれが『最終的に「カラーガラス凝縮体(color glass condensate)」と呼ばれる飽和状態に達する可能性』があると予測しています。
この新奇な核物質相は、強い相互作用を媒介する「カラー電荷」に由来し、光速近くまで加速された原子核内で形成されると考えられる密度の高いガラス状の構造から名付けられています。
これらの構造は、時間の遅れ(時間的伸張)によって“凍結”されたかのように見えるのが特徴です。
科学者たちは、EICを用いてこの物質相の存在に関する決定的証拠を探し出すとともに、単一の陽子または中性子の境界を超えてグルーオンがどこまで伸びるのか、その限界を実験的に検証しようとしています。
さらに、あふれんばかりのポップコーン鍋を蓋でしっかりと押さつけるような、グルーオンの増殖を抑制するメカニズムについても解明を試みます。
自然界で最も強い場であるグルーオン場の強度を精密に測定することにより、グルーオン同士の相互作用の特性や、それらがどのようにして現在の可視宇宙に存在する物質の大部分を形成しているのかといった根本的な問いに答える手がかりが得られると期待されています。
陽子スピン・パズルの解明
EICは、電子および陽子の両ビームのスピンを制御可能な状態で整列させることができる、世界初の偏極電子・陽子衝突型加速器です。
このスピン偏極状態を利用することで、陽子を構成するクォークおよびグルーオン、ならびにそれらの相互作用が、陽子のスピンにどのように寄与しているかを高精度に測定することが可能になります。
スピンは、陽子の光学的・電気的・磁気的性質に影響を与え、MRI(磁気共鳴画像)技術などの基盤ともなっていますが、陽子スピンの起源は依然として未解明です。
1980年代の実験によって、クォークが陽子全体のスピンに寄与するのはおよそ3分の1程度に過ぎないことが判明し、以降この問題は「スピン・パズル」として知られてきました。
近年の研究では、グルーオンもスピン構造に顕著な寄与をしていることが示されており、おそらくクォークよりも大きな寄与をしていることが示唆されています。
EICは、陽子内部におけるクォークおよびグルーオンの運動や分布が、どのようにスピン構造を形成するかを含め、それぞれの寄与について決定的な測定を行います。
これにより、長年にわたって未解決だった「陽子スピンの起源」問題に対する最終的な解答を与える最後のピースを提供します。
クォークとグルーオンの閉じ込め機構
EICにおける電子ビームと陽子・原子核との高エネルギー衝突は、複合粒子内部に束縛されているクォークおよびグルーオンに十分な運動量を与え、それらを一時的に解放するに十分なエネルギーを与えます。
解放されたカラー電荷を持つクォークおよびグルーオンは、量子真空から新たなカラー電荷を直ぐに取り込み、カラー中性の粒子へと再構成されます。
このようにして、EICの高エネルギーおよび高輝度での衝突は、クォーク・グルーオンと量子真空との相互作用に関してこれまでになり精度の研究することを可能にします。特に、クォークやグルーオンのスピンが偏極している場合、あるいは大きな原子核内のように他のカラー電荷と共存している状況下で、これらの相互作用がどのように変化するのかという点を明らかにする解析が可能です。
これらの研究は、なぜカラー電荷を持つクォークおよびグルーオンが自由粒子として観測されず常に閉じ込められているのか、という量子色力学(QCD)における基本的な問題に関わる、量子真空の未発見の性質を明らかにする可能性を秘めています。
原子核内のクォークとグルーオン
過去の実験により、原子核内におけるクォークの分布は、単体の陽子内の分布とは異なること(いわゆる「核シャドウイング効果」)が明らかにされています。
しかし、グルーオンの分布も同様に原子核中で変化するかどうかについては、いまだ明確には分かっていません。
また、近年新たに浮上した課題として、クォーク・グルーオン・プラズマ中を通過する際、軽いクォークと重いクォークの両方が予想に反して同程度のエネルギーを失うように見えるという現象があります。これは従来の理論モデルでは説明が難しく、新たな物理の可能性を示唆しています。
EICにおける電子と様々な種類の原子核の衝突実験は、原子核内のクォークおよびグルーオンの分布を高精度に調べるための理想的なツールとなるでしょう。
さらに、軽いクォークと重いクォークが核物質中でどのように相互作用し、エネルギーを失っていくのかを解明する手がかりを与えることが期待されています。
(この章で使われている画像は、https://www.flickr.com/photos/brookhavenlab/albums/72157714316624996/ から)
電子イオン衝突型加速器(Electron-Ion Collider: EIC)

イオン源
電子源
カソードの一部には光電子放出材料がコーティングされており、そこにレーザー光を照射すると、光電効果によって電子が放出されます。
超電導電磁石
超伝導加速器磁石は、超伝導線材で構成されたコイルに電流を流すことで強力な磁場を発生させる、非常に複雑な装置です。この超伝導線材は、電気抵抗がゼロとなり、エネルギー損失なしに電流を流すことができる特殊な材料で作られています。
しかし、この超伝導状態を維持するためには、温度を絶対温度で約4ケルビン(−269℃)まで冷却する必要があります。これは、自然界で到達可能な最も低温に近い極低温環境です。
前段加速器
ePICコラボレーション(国際共同実験グループ)
ePICは、私たち人間を構成する物質、そして宇宙を構成する可視物質の99%の構造を解明するために結集した数百人の科学者とエンジニアの集まりです。私たちは、電子と陽子、あるいは他の原子核との衝突を解析するための、世界で最も高度な粒子検出器の開発に取り組んでいます。収集するデータは、可視物質の最小単位であるクォークとグルーオンの動的な相互作用に関する知見をもたらし、自然界で最も強い力の根底にある法則の理解に貢献します。
この検出器を構築し、最終的には画期的な科学研究を行う過程で、私たちは新しい技術を開発し、現代社会の推進に貢献する次世代の原子核物理学者とハイテク技術書を育成することになります。ePIC検出器は、米国エネルギー省科学局、原子核物理学局の資金提供と国際パートナーからの主要な貢献によって建造される予定です。
日本は、飛行時間検出器、前方カロリメータ、ストリーミング型データ収集システムの開発・建設で ePICコラボレーションに貢献しています。2025年現在、日本からの研究機関として、東北大学、山形大学、筑波大学、東京科学大学、東京大学、理化学研究所、日本大学、信州大学、奈良女子大学、神戸大学、広島大学が、ePIC実験に参加しています。
ePIC検出器
素粒子・原子核物理学で用いられる検出器は、その実験に合わせて最新の技術を統合して建設されます。ePIC実験は、長さ約10メートルの円筒形検出器で、電子とイオンのビームラインに沿って各方向に最大45メートルまで伸びる追加機器を備えています。最先端技術を用いて、光速に近い速度で移動する高エネルギー電子と陽子または重イオン(より大きな原子核)の衝突で生成される粒子を検出します。
下図は、ePICの中央バレル検出器を一部カットして内部がわかるように示した図です。図の左側から陽子ビームまたはイオンビームが、右側から電子ビームが運ばれてきます。検出器の中心付近で2つのビームが交わるようにビーム位置は制御されます。
電子が陽子・原子核中のクォークやグルーオンと反応すると、電子は散乱され検出器の左側に飛んでいき、生成されて粒子は主に右側に飛んで行きます。中央バレル検出器では、衝突事象を捕らえ、反応で出た粒子を正確に測定するために以下の特徴を持っています。
- 衝突で生成された荷電粒子の軌道を曲げるための1.7テスラの超伝導磁石
- 磁場中の粒子の軌跡を追跡するための高精度シリコン検出器
- 電子のエネルギーを高精度で測定する高精度電磁カロリメータ
- 広範囲のエネルギー範囲にわたって粒子識別を行うための一連の粒子識別技術
- AC-LGAD Time-Of-Flight (TOF)
- Ring Imaging Cherenkov (RICH)
- High-performance Detection of Internally Reflected Cherenkov (HP-DIRC)
- 「ジェット」の測定を可能にする、円筒形検出器の半径方向外側に位置する高密度の電磁カロリメータとハドロンカロリメータ
- ジェットとは、高エネルギー電子が陽子またはイオンのクォークと散乱したときに発生する、ハドロンがまとまって放射状に飛んで行く現象です。
ePICの中央バレル検出器の断面図。
(オリジナルは、https://www.bnl.gov/eic/images/epic-cutaway-labeled.jpg)
ePIC実験でのデータ処理と分析の鍵となるのは、機械学習(ML)技術と人工知能(AI)です。ePIC検出器は、従来のハードウェア・トリガーを必要とせず、革新的なストリーミングデータ取得システムを用いてデータを取得します。AI/ML技術は、どの電子イオン衝突を研究すべきかについてインテリジェントな判断をコンピューターに「学習」させ、科学者が解明したい物理学上の疑問に関連するデータをePICが確実に取得できるようにします。
MLとAIは、検出器の較正や衝突イベントの再構成など、あらゆるレベルで活用されます。このリアルタイム分析とフィードバックにより、検出器の迅速な診断と最適化が可能になり、物理結果へのアクセスも大幅に高速化されます。