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#author("2024-03-30T11:13:48+00:00","","")
* [[よしなしごと]] [#l11c9a5c]

** ポスドクに採用されるまで [#g481152f]

博士号を取ったのが1999年の3月でしたが、ちゃんとフルタイムのポスドクとして雇用されたのは10月でした。

博士号は「足の裏の米粒=取らないと気持ち悪いが、とっても食えない」と言われることもあります。
医師免許などの資格と違って、それを持って入ればすぐに職につけるわけではないからでしょう。
極一部の人は博士号を取る前にポスドク(さらに極々一部の人は任期なしの職)の内定がもらえていて、博士号所得と共に職につけたりしますが、僕はそうではありませんでした。

博士号を取るということは、博士課程(後期)を単位所得の上卒業するということですので、学生として大学院に所属しているということができなくなります。
「日本だと、ポジションに空きがあると次の職探しに影響が出るかもしれないから、
次のポストが見つかるまでは、研究生という立場でも所属があった方がよい」という人もいたので、卒業前に研究生の手続きをしていました。
ただ、研究生になるには、検定料、入学金、授業料といった物をあわせて十数万円大学に払う必要があります。

僕は大学院でやっていた研究が国際共同研究だったこともあって、日本のポストに執着する気がありませんでした。
少し考えてみると、肩書が切れるかどうかってのを気にするのは日本だけではないか、外国のポストに応募するときそんなことを取る側は気にするのだろうか、という疑問がわいてきました。
また、博士課程の後期では、日本育英会の奨学金(月10万8千円でした)だけで生活し、卒業後に備えてその一部は貯金していたのですが、その蓄えの中から十数万払うのは無駄に思えてきました。
締め切りが近付いたころには、研究生になる気がなくなり申請を取り下げました。

1990年代の終わりには、文部省がCOE事業を始めその資金によるポスドクの雇用や、科研費によるポスドクの雇用ができるようになりました。
それまでは、日本学術振興会(学振)の特別研究員が日本ではほぼ唯一のポスドクポジションで、僕は博士課程(後期)3年の時に申請した結果が、補欠合格(順位は確か十数番目)でした。
ポスドクとしての受け入れ機関は、筑波大学の三明さんのところでアメリカのブルックヘブン国立研究所で建設中だったRHIC加速器をもちいたPHENIX実験で研究を行うという研究計画を出していました。
補欠合格になっている人は、合格者から辞退が出るか、補正予算などで学振の予算が増えその年度の採用枠が増えた場合に、採用されます。
その年度には、補正予算が組まれる気配もなく、こっちの方は運が良かった、という程度で全く期待していませんでした。
その年度には補正予算が組まれる気配もなく、運が良かったら採用されるかもしれないけどたぶん無理だろうな、という気持ちでいて全く期待していませんでした。

研究生になる気はなくなったのですが、研究室の教授の宮村さんと助教授の杉立さんにお願いし、肩書も所属のなくなるけどこれまで通り机やワークステーションなどを使わせてもらえるようにしてもらいました。
博士論文を通してもらう条件として、その内容を速やかにまとめて学術雑誌に投稿すること、というのがありましたので、そのための環境が必要ということだったと記憶しています。
また、当時授業シラバスをウエブに乗せるということが始まったころでしたが、それに関連する仕事をするアルバイトとして教務補佐員をすることになりました。

さて職探しですが、公募されていないものには通常応募できないわけです。
公募情報は、日本物理学会の学会誌に掲載されていたり、研究者の団体である「原子核談話会」や「高エネルギー物理学研究者会議」のメーリングリストに流れてきます。
他には、CERN Courier という、CERNが無料で配布している 高エネルギー物理に関する国際雑誌に掲載されたりします。

博士論文を書いている間にも出ていた公募にも応募していました。
一つは大阪大学の核物理研究センター(RCNP)のCOE研究員と、もうひとつはKEKのポスドクでした。

RCNPの方は、Spring-8 で行われたいる LEPSという実験についてでした。
鷲見さんが、「こういうのは押しかけでもいいので直接行って売り込んだ方がいい。知り合いがいるから頼んでやる」と言ってくれたこともあって、応募とは関係なくセミナーをさせてもらいました。
ただ、行って話を聞くと、「来年は予算が減りそうなので現在雇用している人分しか人件費がなさそうなのでごめん」、ということでした。

KEKの方は、K中間子の崩壊モードのうち非常に確率が低いものを精度よく測定して標準理論からのずれがあるかどうかを調べるという実験の検出器担当のポスドクでした。
こちらは書類選考後面接を受けましたが、分野がこれまでやってたのと違うことともあって、面接でその物理の細かいこと(その実験の測定はCKMマトリックスのどこがどうか等)を聞かれて答えられなかったが、たぶん主な原因で不採用でした。
検出器がメインなので物理の細かいことは知らなくても大丈夫かと甘く見ていたのが問題だったと思います。

博士号を所得後には国内の公募がなかったこともあり、海外のポジションに行くつか応募しました。
一つは、ワシントン大学のNA49実験(院生の時に参加していたNA44実験と同じ分野)のポスドク・ポジション。
こちらは書類を送ったけど、結局なんの返事も来ませんでした。

もうひとつは、ドイツのミュンヘンにあるマックスプランク研究所で、アメリカのブルックヘブン国立研究所のRHIC加速器を使ったSTAR実験のための検出器のR&Dが主な仕事になるポスドク・ポジションです。
こちらは返事が来て、「6月にイタリアのトリノで 国際会議 Quark Matter があるので、それに来るのであればイタリア-ドイツ間の往復フライトのチケット代は払えるので面接に来るか?」といった内容でした。
もちろん行かない理由がないので、なんとか旅費を工面して国際会議にも参加し、面接もうけてきました。
しかし、残念ながらこちらも結果は不可でした。

博士論文の結果を学術論文としてまとめるのはいいとして、単に待っていても公募がでるがいつなのかわからないし、蓄えも減っていくばかりです。
そこで、補欠になっている学振ポスドクの採用がきたらすぐにBNLで研究に参加できるようにということで、永宮さんにお願いしてKEKの協力研究員にしてもらいBNLに行くようにしました。

> 永宮さんは最初に会ったときはCERN SPS加速器をもちいたNA44実験を立ち上げた一人で当時はアメリカのコロンビア大学の教授でした。
また、BNLでのPHENIX実験の初代 spokesperson (実験代表者)でもありました。
1999当時はKEKで進めていた大型ハドロン計画のために日本にもどっていました。
また、BNLでのPHENIX実験の初代 spokesperson (実験代表者)でもありました。
大型ハドロン計画はJ-PARCとして実現し、永宮さんは初代のJ-PARCセンター長を務められられました。


KEKの協力研究院は、給料はでませんが受け入れ担当者が認めれば研究のための出張ができます。
KEKの協力研究員は、給料はでませんが受け入れ担当者が認めれば研究のための出張ができます。
PHENIX実験に参加している日本グループは、日米科学技術協力事業(高エネルギー物理分野)に参加していていました。
この予算の枠で、日本の大学とBNLとの間に協定が交わされていて、BNLから宿泊場所の提供がされ、また予算から実験のためにBNLに滞在する学生・研究者・教員には日当が支払われることになっていました。
日当はたしか25$/dayでしたが、日本にいたらまったく収入もないのでそれに比べればましです。

90日以下であれば、アメリカにはビザ(査証)なしで滞在できます。
このときは、少なくとも3月末までいるつもりだったので、大阪にあるアメリカ領事館にビザを申請に行きました。
直接行って手続きをすれば、問題がなければその日のうちにビザが発行されます。
このときは、日本に所属があるということで、B1ビザを取りました。

8月にBNLに行ってからは、筑波大が担当している検出器の立ち上げ作業を大学院生と常駐していた助手の佐藤さんと一緒に行いました。
アメリカにいて、とりあえず仕事をしながらも合間に論文を書いたりもしていました。
NA44実験のコラボレータの多くは、PHENIX実験、別のRHICでの実験のSTAR, BRHARMS にもいましたので、論文の内容を議論することもありました。
そのなかで、「ローレンスバークレイ研究所(LBL)の James Symons がポスドクを取りたいと言っていて、公募が出そうだけど出す気があるか?」というメイルが、NA44実験のコラボレータの一人 Nu Xu からきます。
もちろん出さない理由がないので出し、やがて面接をするからLBLに来てほしいという返事がきました。

> Nu Xu は、最初にあったときはロスアラモス国立研究所(LANL)のP25グループのポスドクでした。
P25のグループリーダーは、Barbara Jacak(ヤツァックのように発音)で、彼女は後にSUNY Stony brook (ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校) に移り、2006-2012年の期間 PHENIX の spokesperson を務めてます。
Nu は、LANL の後、LBLに移りSTAR実験の soft hadron physics という作業部会の中心人物になり、2008-2014年の期間 STAR の spokesperson にもなっています。

LBLはカリフォルニア州にあるので、BNLのあるニューヨーク州からは飛行機で行くことになります。
「飛行機代はLBLが出すけど予算がたくさんあるわけではないので、South West か、Red eye flight にしてほしい」と James から連絡がありました。
Red eye flight は、夜中に飛ぶフライトで寝不足から red eye になるからということでそう呼ばれています。
僕が選んだのは乗り継ぎが多い South West の方でした。
たしか行きと帰りと乗り継ぎの空港が違っていて、NYは LaGuardia、CA は Oakland での発着でした。
少なくとも、二つか三つの乗り継ぎを経て移動は、一日仕事。
LBLの方でホテルも予約してくれていて、Berkeley downtown のBARTの駅近くにある Hotel Shattuck Plaza に泊りました。

ポスドクを公募しているのは、LBL の Nuclear Science Division の Relativistic Nuclear Collisions group で、パーマネントのスタッフが7,8人、テニア・トラックのスタッフが3,4人の大きなグループです。
最初に、グループリーダーの Hans Goerg Ritter と話をしたあと、どのような研究をしていたかのプレゼンテーションを Nuclear Science Division のセミナーの一環としてしました。
そのあと、二日がかりでスタッフと一人一人面接を受けます。
人が多いので、各自の都合に合わせてあらかじめ時間を調整したうえで、指定された時間に各個人のオフィスに行きいろいろ話をしました。

インタビューを受けていて記憶に残っているのは、Art Poskanzer に、
「なぜ日本人の多いPHENIX実験ではなくSTAR実験をやりたいのか」と聞かれたときに「知り合いのあまり多くないところで力を試してみたい」と答えたところ「Ah, you want independent!」と返ってきたことです。
「なぜ日本人の多いPHENIX実験ではなくSTAR実験をやりたいのか」と聞かれたときに「知り合いのあまり多くないところで力を試してみたい」と答えたところ「Ah, you want to be independent!」と返ってきたことです。
他の人たちとも30分程度いろいろ話したはずですが、今でも印象に残っているのは Art とのこのやり取りです。
BNLに戻ったあとは、BNLに常駐している LBLのスタッフとも面接を受けています。

東海岸に帰ってしばらくして、採用することにした、という通知をうけました。
そのあとは、PHENIXでやっていたことを他の人への引き継ぎや、採用されるための手続きがありました。
この時持っていたB1ビザでは、アメリカで給与をもらった働くことができません。
そのため、就労できるビザをとる必要があります。
LBLの Human resource (人事課)の判断では、通常専門職の人がとる H-1B ではなく、J-1 visa (交流訪問者ビザ)が良いということでした。
ビザを取るには、国籍のある国に戻りそこにあるアメリカ大使館・領事館に申請することになります。
そのため、ビザを取るために日本に戻りました。

ビザを所得後、今度はLBLのポスドクとして働くためアメリカに戻ります。
RHICの実験は1999年に最初に物理データをとるため、各実験グループは準備をしていますし、人もたくさん集まっています。
そのため、最初の1年はBNLに常駐するということでした。
そして、二つのポジションあわせて5年4ヶ月になるポスドク生活が始まりました。


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