* 一般教養のころ [#pf7a7ce8]

広島大学 教育学部 教科教育学科 は、科目ごとに分けて学生募集が行われていました。
従って、その後ろに○○教育学専修(□□)と、科目の名前○○、そしてさらに括弧付きで科目の専門□□が続きます。
フルに全部言うと長いので、省略して「教理」と呼ばれていました。
自分の場合は、「教理の物理」ということになります。
そして、教理一つの単位が大講座一つに相当してました。
つまり、大学に入った時から研究室配属されているようなもので、縦のつながりも強くなります。

当時広大は総合移転の過渡期で、当時広島市内の東千田キャンパスにあったのは一般教養 (般教) を担当する総合科学部と、理学部、文学部、法・経済学部でした。
教育学部はすでに移転先の東広島キャンパスに移っていましたが、般教が東千田町で行われているので、1,2年生は広島市内に住んでいるという状況です。
教育学部の建物は残っていましたが殆ど使われておらず、その一部が教理の学生控え室ということで割り当ててあり(元理科実験室だったと思います)学生がたむろしていました。
教理全体ということで、その部屋は一つ上の先輩と一緒に使っていました。
こういうたまり場で、同級生(教理は一学年25人位)や先輩と話をして、授業や卒業後のこととかもたまに話ていました。

入学してすぐに教理の顔合わせ (オリエンテーション) があり、一週間もしないうちに教理物理の新歓がありました。
物理の先生と学部の先輩と大学院の人々もやってきて宴会な訳ですが、自己紹介の時に「理学部で卒論を書いています」という先輩がいました。
まだこのころは、院に行くかどうかはあまり考えてなかったとはずだけど、「教理じゃなくて理学部物理学科で卒論研究ができるんだ」と思った記憶があります。
高等師範学校と文理科大のころからのつながりで、教育学部の学生の卒論研究を理学部や文学部が引き受けるという慣習があり、そういうことができました。

教理の授業は理科教育学に関することは教育学部で、教科の専門に関することは理学部で履修するということになっていました。
教科の必修単位は自分の専門 (物理)を30 (この数の記憶はあやふや)、専門以外 (化学、生物、地学) を 8単位ずつ理学部で履修することとなっていて、必修科目はなく全てが選択必修でした。
理科教育学の単位がある程度あるからだと思いますが、教科の必修単位数は理学部よりも少なく設定されていました。
負けず嫌いなので、物理学科の選択はすべて、選択必修も同じくらいとってやろうと思い、結構たくさん授業をとってたと思います。

教理はいわゆるゼロ免なので、卒業用件に教員免許の所得が入っていませんでした(広大の学校教育学部の方は、小学校・中学校教員養成課程なので、教員免許を取らないと卒業できません)。
とらなくてもいいけど、中学校と高校の教員免許を取るための授業が設定されていました。
学部の2年生の時に、中学校理科免許の為の実験(中理免の実験)の授業があり、これは東千田キャンパスから1 km 位南方に行った皆実町にある広大付属中・高等学校で行われていました。
このころには、中学校の教師になろうかどうか、また自分がそれに向くのかどうか悩んでいたこともあるのと、中理免の実験が土曜日に行われていてなんとなく面倒になったので、途中から行かなくなってしまいました。
行かなくなって、少ししてから当時生物の助教授だった池田さんに「とっておいた方がいいよ」とアドバイスされ、結局は学部3年生になったときに広島市内まで通って実験をしてました。
高校教員免許用の実験は、理学部で開講される学部3年生用の実験を振り替えるということでした。


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