よしなしごと†宮村修†大学院に入ったとき、宮村さんはハドロン物理学研究室の助教授でした。 教授の米澤さんが退官前の一年だけ原子核理論研究室に移動するとともに、宮村さんが教授となりました。 直接の指導は杉立さんになりますが、宮村さんにもいろいろ気にかけてもらいました。 残念ながら2001年7月10日に脾臓がんの為なくなられましたが、メンターの一人であることには変わりません。 宮村さんは穏和な人で、怒るときも声を荒げておこるような人ではありませんでした。 ただ怒っているときは雰囲気でわかり、学生はレベル幾つという呼び方で恐れていました。 直接の指導をするのは理論の学生ということもあり、私が怒られたことは殆どありませんが一度だけ恐かったことがあります。 博士論分を書いていることの話です。 英語の添削をしてもらおうと途中まで書いたものを宮村さんに渡した後のことでした。 論文のコピーを手にし「金田君ちょっとおいで」と呼ばれました。 セミナー室に行き二人だけで話しを始めたのですが、雰囲気が少し違っていました。
クォーク・グルーオン・プラズマ(QGP)のシグナルとして当時非常に有効であると考えられていた物の一つに J/Ψという粒子の生成量が変化するというものがあります。 J/Ψ はチャーム・クォークと反チャーム・クォークからなる粒子で、チャーム・クォークの質量が大きいことから、核子同士の衝突では最初のパートン・パートン衝突でしか生成されません。 一方 QGP が生成された場合、チャームと反チャームが束縛する前に回りに多くある軽いクォークと束縛しDと呼ばれる粒子になってしまうと予測されます。 そのため、陽子同士衝突の場合と重イオン同士の衝突を核子あたりのエネルギーが同じ場合で比較すると J/Ψ の生成が重イオンの場合は抑制される(suppression)と予測されていました。 この J/Ψ suppression を予言したとして有名なのは、Matsui-Satz と呼ばれる論文
です。 QGP関係の研究をする研究室にいてそのときまで知らなかったのですが、宮村さんの話では
ということを聞かされました。 見せられた論文のコピーは
で、投稿年月日は確かに Matsui-Satz のものより早いものでした。 最初にアイディアを持ちかつ結果も持っていたのに、出版日が遅くなったため Matsui-Satz ばかりが J/Ψ suppression の代表として引用され続けている。 宮村さんは、かなり悔しい思いをして来たと思います。 しかも自分の研究室の学生までもそのことを知らないまま、自分の論文を引用していない。
と言われたのショックは忘れられません。 また、普段人を悪く言わない宮村さんが、
というほどであり、どれほど口惜しい思いだったか想像するに余りあります。 そして
と言われました。 松井さん本人には面識がなくこのとことを直接聞いたことがないのでどういう反論をされるか分かりませんが、宮村さんの名誉の為記述しておきます。 J/Ψ suppression を最初に言ったのは宮村修である。 |