よしなしごと

博士課程前期一年の頃

研究室に行って最初のイベントは、研究室のメーンバーの顔見せです。 4年生以上が集まって自己紹介をするというものです。 このときに、「君は何をしたい」というのをみんな聞かれてました。 それで「加速器を使った実験を....」と言った時に、杉立さんから「今のころから何かの専門家のようなことを思っているようでは駄目だ」というようなことを言われたと記憶してます。 何もよく知らないうちから自分のやりたいことを狭めては行けない、ということだと思いますが、言い方はがつんとくるものでした。 もっとも、言ってることは正論なので、今でもそれは肝に銘じているつもりです。

ほぼ毎週 NA44 グループ・ミーティングが開かれていて、議事録を書くのは M1 の仕事でした。 その議事録は e-mail でグループのメイリング・リストに流すことになっていました。 当時のUNIXでは日本語入力ソフトは最初からは入っていませんでした。 また「英語を上達する為にも、日本人に送るメイルも英語で書くべし、だから日本語入力ソフトはインストールしない」というのがマシンの管理者の方針でした。 最初の頃は、午前中にあったミーティングの議事録が送信出来たのが夕食に行く前ということも多かったです。

M1になって最初に「これ調べて置いて」と言われたのは、ある回路基板を動かせるようにすることでした。 それは、PHENIX実験で使う予定の discriminator で、6月頃にKEKでテスト実験をするので検出器の読み出しに使うというものでした。 実際に使うときは、きちんとした計測用のモジュールのボードにのっているはずだけど、その試作品は入出力のコネクタが付いているだけで、駆動と閾値用の電圧供給は基板の上にピンが出ているだけ、という代物でした。 実際に調べることとは、閾値調整用の外部からかける電圧と実際に内部で設定されている閾値がどういう相関にあるか、ということでした。

KEK の実験は、当時はまだ始まっていなかった PHENIX 実験の為の検出器の一つ Beam-Beam Counter のプロトタイプをテストするというものでした。 実験が終わってからは、その解析を PAW という粒子物理の分野ではスタンダードなソフトを使って行ってました。

当時杉立さんは、隣の中間・高エネルギー研究室の鷲見さん・阪口さんと一緒に NA44 という実験に参加していました。 それまでは、proton ビーム、S ビームを使ってデータ収集をやっていて、1994年からは新たに加速できるようになった Pb ビームで実験するという時期でした。 Pb ビームの前に proton ビームが出るのでそこで検出器の立ち上げなどを行うので、M1の中から一人行かせようという話になってたそうです。 それで誰を行かせるかを決めるのに、解析をさせてその発表を見てから決めようということが、僕らの知らないところで決まってたらしく、そうとは知らずに解析をやっていました。

その結果、CERN に 9月に 3週間ほど行かせてもらえることになりました。 裏で評価してたのは、スタッフとドクター・コース人たちで、あとで聞いた(たしか江角さんから)によると「どっちもとても良いとは言えないレベルだけど、まぁ金田かなぁ」という感じの決まり方だったそうです。

CERN に行けることになったのですが、英語はそれほど得意ではないにも関わらず、付け焼き刃で勉強しても駄目だろうと思い特に英会話の勉強もせずに行ってしまいました。 行ってみると当然ながら、相手が何を言っているかがうまく聞き取れない、聞き取れないからしゃべれない、という状態です。 ストレスか一週間後には血尿が出てしまいました。 まぁそれも一日で直ったので、それほど深刻では無かったんだろうと思いますが。。

大変だったけど、外国で他の国の人と研究をするというのは楽しく悪い思いはしませんでした。 まだこのころは、ドクター(博士課程後期)に行こうか、就職しようかはあまり考えていなかったと思います。 それでも、ドクターに行けば、何度も外国に(費用は研究室持ちで)行けるので、それもいいなぁとは思ってました。

2007/01/22 記


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Last-modified: 2009-04-18 (土) 06:06:18 (3782d)